« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »

2016年2月

2016年2月15日 (月)

日々のみことば 2016.2.16

二月十六日(火)

民数記二十二章十二節

神はバラムに言われた。「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ。」

 バラムはモアブ人で、イスラエルとはライバルのような敵でした。このバラムは、モアブの王バラクに招かれて、イスラエルを呪うように頼まれたのでしたが、神さまは行ってはならないとおっしゃいました。
 バラムは、神さまに言われてそのように、使者たちに伝えますが、多くの贈り物と、しつこい願いに行きたくなったようです。神さまからはっきり言われていても、報酬や自分の願いがあると、そっちに流れて行ってしまいます。
 もし、聖書が神のことばであるならば、この神のことばである聖書に聞き従うことが最も大切なことです。あなたは、神に聞き従うことができるでしょうか。

祈り 「天の父なる神さま。聖書を開くとき、そこに書かれていることを素直に受け取ることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.15

二月十五日(月)

民数記二十一章三十四節

しかし、主はモーセに言われた。「彼を恐れてはならない。わたしは彼とそのすべての民とその地とをあなたの手のうちに与えた。あなたがヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホンに対して行ったように、彼に対しても行え。」

 約束の地はまだ先でしたが、ただ領地を通らせてほしいとの願いを受け入れず、かえってイスラエルに戦いを挑んでくる国をイスラエルは撃破しました。戦いが許容されている不思議な時代、状況ですが、これは神さまの指示のもとでのことでした。
 謙虚に振舞っているのに、かえって相手が横暴になってくるということがあります。神さまはそんな時、適度にやっつけることを教えてくださるかもしれません。恐れず、毅然とした態度で接したいものです。

祈り 「天の父なる神さま。謙虚に、かつ毅然として物事に当ることができますように。神さまが背後にあって導いてくださることを感謝します。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月13日 (土)

日々のみことば 2016.2.14

二月十四日(日)

民数記二十一章九節

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 またも逆らうイスラエルの民に、神さまが「燃える蛇」を送って、多数の死者が出ました。助けを求めたイスラエルの民の願いに応じて神さまは、青銅の蛇を作るように命じます。なんとこの蛇は、燃える蛇にかまれた人が見上げると死なずに済んだという奇蹟の蛇となりました。「見るだけ」でいいというのは、いかにも都合のいい話です。けれども、イエス・キリストも信じるだけで救われます。実に都合のいい話です。青銅の蛇は旗ざおに架けられました。イエス・キリストは十字架に架けられました。神は信じて見上げることを求めておられます。

祈り 「天の父なる神さま。苦しいとき、罪意識に押しつぶされるとき、イエス・キリストを見上げて生きることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月14日(日)礼拝へのお招き

当キリスト教会は信者でなくとも,どなたでもご参列いただけます。

あなたの周りには,問題点を指摘されると,自分の正しさを示そうと躍起になる人はいませんか?! 信仰の父アブラハムが実はそんな人だとしたら・・・。
2016年2月13日(日)主日礼拝
午前10時30分から12時ころ
水戸下市キリスト教会会堂にて
説教題:「いったい何と」
説教者:渡部和彦牧師
※ 貸し出し用の聖書・讃美歌がございます。礼拝後は軽食がございますので,よろしければそちらもどうぞ。
☆ 擬似キリスト教,偽キリスト教でお困りの方,疑問のある方の相談に乗ります。ご連絡ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月12日 (金)

日々のみことば 2016.2.13

二月十三日(土)

民数記二十章十節

そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 ついにモーセも堪忍袋の緒が切れました。モーセが率いてきたイスラエルの民は、神さまが水や食べ物をもって養ってくださるのを見て来ながら、またも水がないと言ってモーセとアロンに逆らいました。神さまはなおも民を養い、導こうとされましたが、モーセは「ぶち切れて」しまいました・・・。そしておそらく叫ぶようにしていったのが、冒頭の言葉です。
 けれども、この行為は神さまのみこころを損ないました。謙遜なモーセでしたが、神さまの憐れみ、慈しみを表すことができず、怒りをぶちまけてしまいました。

祈り 「天の父なる神さま。どんなに私が正しかったとしても、神さまはさらに憐れみ深く、慈しみ深い方であることを思います。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.12

二月十二日(金)

民数記十九章十一節

どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。

 日本では、死にかかわると穢れるという概念があります。葬式の後は、お清めの塩を振り掛けます。イスラエルに伝わるきよめの儀式と似ています。死はいのちと反対であり、忌まわしいものです。イエス・キリストも親しい友の死を前に涙を流されました。
 けれども、死が汚れとされているのは、のろいのゆえです。人は罪があるので死ぬというのが聖書の教えです。死は、なるべく考えないようにするものではなく、神によって解決すべきものです。

祈り 「天の父なる神さま。いのちの神さまがイエス・キリストによって死を解決してくださることを感謝します。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.11

二月十一日(木)

民数記十八章二十一節

さらに、わたしは今、レビ族には、彼らが会見の天幕の奉仕をするその奉仕に報いて、イスラエルのうちの十分の一をみな、相続財産として与える。

 レビ族はイスラエル民族の一つの部族ですが、神さまを礼拝するための幕屋の仕事が割り当てられたので、その報酬は、他のイスラエル民族がささげものとして携えてきたものでした。神へのささげものがレビ族の報酬になるというのは、面白いシステムだと思います。ささげる方は侮ってはならないし、受け取る方は高ぶってはなりません。民主的に決める税金とは違う、神さまのやり方です。
 土地からの収穫も、元をただせば神さまからの恵みの祝福です。私たちは、神に感謝して受け取り、神に感謝してささげたいものです。

祈り 「天の父なる神さま。自分の稼ぎを自分の力によるものだと高ぶることがないようにお守りください。多く与えられているものは必要な方に回るようにすることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.10

二月十日(水)

民数記十八章二十節

主はまたアロンに仰せられた。「あなたは彼らの国で相続地を持ってはならない。彼らのうちで何の割り当て地をも所有してはならない。イスラエル人の中にあって、わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。

 イスラエルのほかの民族には、割り当て地がありましたが、祭司の一族には、割り当て地がありませんでした。神さまは、神さまご自身が「割り当て地」なのだとおっしゃいます。豊かな収穫をもたらす土地が目の前にあるのではなく、目に見えない神さまに期待する信仰が必要でした。
 私たちは「目に見える」安全を確保したいと願います。けれども、もっとも大切なことは、目に見えない神さまに信頼することです。実は「お先真っ暗」な時のほうが神さまを頼りやすいかもしれません。

祈り 「天の父なる神さま。順風のときにも、目に見えない神さまに信頼できますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子供ゲーム大会2016

幼児,小学生を対象としたゲーム大会です。どなたでもご参加いただけます。

16__hp_16021207

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 8日 (月)

日々のみことば 2016.2.9

二月九日(火)

民数記十七章八節

その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。

 神さまは,イスラエル人が逆らうので,アロンが神さまの定めた祭司であることをはっきりと分からせるために不思議なことをなさいました。すなわち,十二部族を表す十二本の杖を集めて並べておいたところ,アロンの名前を書いておいたレビ族の杖だけが,芽を吹き,つぼみを出し,花をつけ,アーモンドの実を結んでいました。杖が,花や実を付ける!なんと不思議なことでしょうか。
 神さまがご自身の働きのために任命した人たちのためには,神さまご自身がその身分,働きを保証してくださいます。私の職業,家での役割,働き,さまざまなものは,神さまが花と実りを与えてくださいます。

祈り 「天の父なる神さま。自己主張しなくとも,あなたがよくしてくださることを感謝します。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.8

二月八日(月)

民数記十六章四十一節

その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」

 事実は全く違いました。ここで言われている「主の民」は,神が立てた指導者であるモーセに逆らい,主の不思議で恐ろしい御業によって地が割けてそこから落ちていってしまった人たちでした。決してモーセの手によるのではなく,神の御業でした。
 事実とその意味を取り違えるということがあります。言われていたことを捻じ曲げて,悪く言ってしまうことがあります。人間の愚かさと罪深さです。私の周りの町の人の話,世間話,政治の世界,どこででも話が捻じ曲がり,誤解し,悪意のある言い換えがなされます。
 わたしの口,言葉はどうでしょうか?

祈り 「天の父なる神さま。誤解をしたり,誤解を生み出すような表現をしたりすることから守ってください。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.7

二月七日(日)

民数記十六章三節

彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」

 モーセとアロンは一生懸命に民を指導していたのに,その立場をねたみ,うらやむ人たちが出てきました。人は,苦労している人たちの代わりになりたいとは思いませんが,うまく行っている人たちをねたましく思ってしまうものです。
 神がそれぞれに立場と役割をお与えになっています。一人一人責任の重さや,仕事の大きさが違います。感謝と謙遜と忠実さをもって自分に与えられている仕事を全うしたいものです。
 もし,文句があるのであれば,祈りのうちに神さまに訴えましょう。

祈り 「天の父なる神さま。私の仕事,役割があなたの前に覚えられ,輝きますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.6

二月六日(土)

民数記十五章二十四節

もし会衆が気づかず、あやまってしたのなら、全会衆は、主へのなだめのかおりのための全焼のいけにえとして、若い雄牛一頭、また、定めにかなう穀物のささげ物と注ぎのささげ物、さらに雄やぎ一頭を罪のためのいけにえとして、ささげなければならない。

 聖書は過ちや罪に対して,几帳面すぎるほどに厳格です。「水に流す」「時が過ぎるのを待つ」ということはありません。それは,紙が聖なるお方であり,正しい基準の義であられる方だからです。けれども,その聖であり,義である神さまは,同時に愛の方でもあられます。それは,今日の箇所にあるように,救済手段を与えてくださるからです。神はただ裁こうとしてられるのではなく,救い出そうとしてくださっています。

祈り 「天の父なる神さま。自分の正しさを示し,人を裁きがちですが,むしろ神さまから赦しと救いをいただけることを覚えさせてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.5

二月五日(金)

民数記十五章十八~十九節

イスラエル人に告げて言え。

 わたしがあなたがたを導いて行く地にあなたがたが入り、その地のパンを食べるとき、あなたがたは主に奉納物を供えなければならない。

 イスラエル人が荒野のたびを終え,約束の地に入って行って,そこで収穫を得たときには,神さまに感謝のささげ物をしました。
 若者が就職をして初任給を得たときには,本当に喜んで,感謝して,そして親やお世話になった方に贈り物を買います。けれども,日が経つとそのような感謝や感動が薄れてしまうかもしれません。
 イスラエル人は,収穫を得たときにはいつも神に感謝のささげ物をするように命じられました。恵まれ,祝福されていることを覚え続けるために大切なことです。私たちも感謝と感動を覚えるためにも神に感謝のささげ物を続けたいものです。

祈り 「天の父なる神さま。いつも豊かに養ってくださることを感謝します。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 3日 (水)

日々のみことば 2016.2.4

二月四日(木)

テサロニケ五章十六~十八節

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 この聖書の言葉を本当に実践することなどできるのでしょうか。雲をつかむような標語でしかないのでしょうか。しかし,キリストにあって神がそれを望んでおられるというところに,真実性があります。そのように生きることができるのです。
 逆のことが得意な人がいます。「いつも落ち込み,絶えず人におしゃべりをし,すべての事について文句を言っている。」こういう人がキリストに出会って,変えられるというのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」これが可能となる人生に,イエス・キリストによって招かれています。

祈り 「天の父なる神さま。驚くべき喜びと感謝の生活へと進ませてください。絶えずあなたに祈る者とさせてください。」

| | コメント (1) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.3

二月三日(水)

テサロニケ五章二節

主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。

 世界の終わりの日は突如としてやってきます。この「突然」「いつか分からない」ということに怖さを感じるかもしれません。けれども,それは「知らない」からです。聖書には,この世界がやがて終わりということが記されています。また,人間一人一人についても,「死」という「終わりの日」があります。確かに突然訪れ,それがいつであるかは分かりませんが,確実にその日はやってくるのであり,その日に向かって近づいて行っているのです。
 ですから,世界の終わり,私の人生の終わりの日のために備えなければなりません。すなわち,神の前に出る準備です。聖書は,神を信じ,神が遣わしたキリストを信じるように勧めています。今日,キリストを信じて求めませんか。

祈り 「天の父なる神さま。救い主イエス・キリストを信じることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年2月 1日 (月)

日々のみことば 2016.2.2

二月二日(火)

テサロニケ四章十四節

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。

 死の問題は,人間は避けて通れません。しかし,聖書はイエス・キリストの復活を証拠として,人間はやがてよみがえることを教えています。もちろん,それは自動的なことではなく,いのちを創られた神を信じ,キリストによる救いを受け入れることによってです。そうして,死は全く得体の知れない恐怖ではなく,天の御国に入るための通過点であることを知ります。死は独りで迎えるのではなく,イエスとともに通り抜けるのです。そして,終わりの日にこのキリストとともに新天新地で幸福な生活を送ることになります。

祈り 「天の父なる神さま。死をも打ち破ったキリストを感謝します。新天新地の希望をさらに強く持たせてください。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.2.1

二月一日(月)

テサロニケ三章五節

そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。

 テサロニケの教会に手紙を書き送ったパウロは、かつてテモテという教師を送ったことがありました。
 なんでもかんでも自分の手で管理するというのは良いことではありません。自主性に期待し、任せることも大切です。けれども、どうしても手助けしたり、様子を見に行ったりすることもあります。あなたが思慮深さをもって愛情深く相手のためにことをなしたとき、それは大いに助けとなり、悪から守ることとなるでしょう。自己満足ではなく、愛からでる手助けは、労苦が無駄にならないために大きく用いられます。

祈り 「天の父なる神さま。手出ししない我慢とともに、愛情深く手を差し伸べることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.1.31

一月三十一日(日)

テサロニケ二章十四節

兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。

 キリスト教は日本の国では少数派なので、クリスチャンになるのをためらう人がいます。グローバルな目で見れば、世界的には多数派なのですが・・・。しかし、身近な関係において平安な生活が送れるかどうかは大切なことです。クリスチャンになれば、やはり周りの人とは違った価値観になります。けれどもそれは、違和感を感じたり、苦難に遭うこと以上に安定と安全、揺るがない自信を与えてくれるものです。
 目先の利益に振り回されがちですが、自分の人生、生涯を揺るがない神の救いに据えたいものです。

祈り 「天の父なる神さま。苦しみを尺度とするのではなく、揺るがない自信となる真実を基盤とすることができますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日々のみことば 2016.1.30

一月三十日(土)

テサロニケ二章四節

私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

 福音が記されている聖書を読んだり、福音が語られるメッセージ、説教を聞いたりして、かえって心苦しくなったり、ショックを受けたりすることもあります。それは聖書のメッセージがまずいのではなく、自分の心にまずいことがあるからです。
 いつでも辛口であればいいということではありませんが、耳障りがよく、人の心をつかむような話にはちょっと注意が必要です。神が念頭にあるのではなく、人を取り込もうとする罠かもしれません。あるいは逆に不安を煽り、脅しによって自分たちのグループに入るように誘うかもしれません。神中心が正常です。

祈り 「天の父なる神さま。あなたが聖書を通して与えてくださる福音を聞けますように。」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年1月 | トップページ | 2016年3月 »